I & Music
僕と音楽との出会いから現在まで、どのような経歴を歩んだきたのか紹介!
音楽との出会い
そもそも、僕が音楽と出会い、興味を持つようになったのは、いつの時期だったのか。今から振り返って考えてみると、どうやら平成2~3年(1990~91年)、ちょうど小学2~3年生の頃だったと思う。別に、コレと言ったキッカケがあった訳ではないが、その頃、我が家に初めてCDラジカセがきて、CDからカセットテープにダビングしてもらって、テープで聞いていた覚えがある。それはちょうど、『どんなときも。』(槇原敬之)、『SAY YES』(CHAGE&ASKA)、『ラブストーリーは突然に』(小田和正)などがヒットした頃。その頃は、別に『こういう音楽が好き』という思いなど無く、とりあえず『聞いたことのある曲』を、テープで聞いていたという感じだった。
合奏との出会い
そこからどうして、自分で音楽を演奏する方向に進むことになったのか。そのキッカケとなったのは、おそらく小学3年の時の学習発表会だったと思う。僕が通っていた小学校は、毎年12月に保護者の方々を集めた学芸発表会があった。そこでは、毎年各学年が劇なり、何なりするわけだが、僕が小学3年の時は、『合奏劇(劇の途中に曲を演奏する)』をすることになったのだ。この時に、演奏したのは、鉄琴(シロフォン)で、曲は『アンパンマン・マーチ』などを演奏した。おそらく、僕が初めて『楽器』を演奏し、『合奏』をしたのは、この時だったと記憶している。
合奏クラブへの入部
翌年、4年生になった僕は、クラブへの入部を決めなければならなかった(ただ、『クラブ』といっても、時間割の1つとして、火曜の6限に4~6年生を対象とした諸活動としてのクラブであり、それほどの本格的なものではない)。僕は、あまり運動をするのは好きではなかったし、絵を描いたりするのも苦手だった。でも、音楽は好きだった。それに、当時の担任の先生から、『合奏クラブが6年生しかいないから、入らない?』という誘いもあり、合奏クラブへ入部することになる。
このクラブ、別に楽器を固定する訳ではない。とはいっても、僕と同級生の親友以外は、2つ年上の女ばかり。必然的に、余った楽器といった感じだった。その頃は、リコーダーや鍵盤ハーモニカ、オルガンなどを演奏した記憶がある。とはいっても、当時は音楽的に能力に長けていた訳ではないし、知識も無かった。とりあえず、『楽譜が読める』し、『飲み込みが早い』というだけ。ヘ音記号の意味も当時はよく分かっていなかったし、リズムも自分の知っている曲の範囲なら、自分の知ってるメロディのリズムで演奏しているような感じだった。
吹奏楽との出会い
翌年、5年生になると、僕は『パソコンクラブ』に入部した。ちょうどパソコンが学校に設置された頃で、僕にとって、それはそれでまた1つの大きな出会いとなった。そのため、『合奏クラブ』は1年きりだった。
そうこうしていた5年生の夏、僕は姉が通っている中学校に行った。どうして、中学校に行ったのかというと、姉が中学の吹奏楽部に入っていて、その吹奏楽部の合宿の夜のイベントとして行われる『公開練習』を母親と一緒に見に行ったのだ。それが生で吹奏楽に触れた出会いだった。その時は、『デイリー・トレーニング』と呼ばれる練習曲と、コンサートでの演奏曲などを演奏していたと思うが、良くは覚えていない。ただ、今までの『合奏クラブ』で感じていた合奏とは次元が異なり、音が身体に響いてくる感覚が、僕には何とも言えない感動に変わったことは鮮明に覚えている。
そして、5年生の終盤になると、僕の小学校では、卒業式・入学式の演奏をしなければならなかった。僕は、木琴(グロッケンというよりマリンバに近い)を担当した。なんとか5年次の卒業式、6年次の入学式の演奏を無事終え、この頃から合奏することの面白さを感じ始めた僕は、翌6年になった時に、再び『パソコンクラブ』から『合奏クラブ』に戻った。そこで、少しずつ音楽的な知識や感覚を培っていった。そして、6年生として卒業間近の2月に、『卒業生を送る会』の卒業生側からのお礼として、ミスチルの『innocent wrold』を合奏することに。合奏クラブということもあり、僕が簡単なアレンジ(というか、譜面はあって、各楽器の演奏内容を決める)をして、みんなをまとめた。これが、僕にとって音楽を手がける第1歩となった。また、小学5・6年の頃には、全校合唱などで指揮者をすることもしばしばあった。
中学入学と同時に吹奏楽部に入学
そして、ついに中学校に入学。僕の通っていた中学では、部活動への入部は必須とされていた。そのため、僕は迷わずに吹奏楽部へ入部した。もちろん、運動部が嫌だったというのもあるが、ただ吹奏楽がやりたかったというのが正直な気持ちだった。
楽器は、元々人気の無かった『Tuba』にすんなりと決まった。楽器そのものも演奏が決して難しい訳ではないTuba。僕は単なる演奏能力だけでなく、先輩から音楽的な基礎知識をたたき込まされた(実はこのときにようやくヘ音記号の意味を理解したのだった…)。
ただ、僕はここで、音楽とはメロディだけではないということを痛感する。普通、音楽を無意識に聴いているときに、最も耳に入ってくるのはメロディーだ。だから、それまで僕も『音楽=メロディー』であると考えていた。がしかし、Tubaという低音パートを務めることによって、『音楽はメロディーがすべてではない』ということを十二分に実感した。これが、僕にとって大きな転機となり、また低音パートのおもしろさに取りつかれていった。
そして中2の秋、3年生が引退すると、気が付けば僕は部長になっていた。これは、吹奏楽に対する思い云々と同時に、単に僕がリーダー格であったということもある。ただ、これが僕にとって、もう一つの音楽的な転機とも言える。それは、部長ということで、指揮台に立つ機会が増えてきたことからだった。Tubaを演奏するようになって、低音の大切さを感じ、必死でやってきたが何かを忘れていた。それは、吹奏楽という音楽集団の中での自分の音のポジションだ。通常の1人演奏と違い、合奏ではバンド全体の音楽性があり、その中で自分がどういう音を出していくのかが問われてくる。今まで、単に楽器を演奏していたのでは気づかなかった。だが、指揮者という立場で、音楽をまとめていく過程で、個々の意識を集約し、1つの音楽として完成させていくことの面白さと責任の重大さを、僕は痛感したのだ。
DTM(Desk Top Music)との出会い
前にも紹介したとおり、僕がパソコンに出会ったのは、小学5年の時だった。当時は、まだWindowsが今ほどポピュラーではなく、パソコン=PC98という時代。フロッピーから起動させた教育用統合ソフト「ハイパーキューブ」でお絵かきやワープロを使用する程度だった。でも僕は、当時からワープロとかパソコンといった類は好きだったので、当時からよく使用していた。
そして、中学に入学した時に、ある先輩から、『コンピューター室に楽譜を入力しら、演奏してくれるソフト(PC-98用)がある』という話を聞いた。僕は、その情報を元に、休憩時間にコンピュータ室に行き、そのソフトを使ってみた。まだWindows OSではない時代だったので、ソフト自体も決して良いものではなく、使い勝手は良くはなかった。でも、本当に画面上の楽譜に音符を並べていったら、ちゃんとその通りに演奏された。これは僕にとって大きな衝撃だった。
そして、ちょうど中1の秋に、我が家に初のパソコン(PC-9821・Windows 95)が来た。その直後に、とある電気店に行った時に、『DTM』商品のカタログを見つけた。それは、Roland社のDTMパッケージ『ミュージ朗』のカタログだった(未だにこの時のDTMのカタログを持っている)。そのカタログを読めば読むほど、自分が考える音楽の形を手軽に表現できる『DTM』の魅力にとりつかれていった。しかし、当時の『ミュージ朗』は、10万円近い金額で、とても中学生の僕が買うことの出来るような品物ではなかった。それに、パソコンに対する専門知識も今ほどは持ってはいなかった。
そんな矢先に、『DTM Magazine』という雑誌に出会った。その名の通り、『DTM』の専門雑誌だ。これには、CD-ROMが付属していて、体験版のシーケンスソフトや当時で始めた頃のソフトシンセが入っていた。僕はそれを購入し、インストールをして、にわかDTMを始めた。体験版のため、シーケンスソフトはデータ保存ができないし、ソフトシンセは30秒経過すると、音が出なくなったりと、とてもDTMが出来るような環境ではなかった。それでも僕はやり続けた。
バンドサウンドとの出会い
僕は、小学校の頃はいろんな音楽を聴いていた。流行っていると言われている曲は大体聴いていた。CHAGE&ASKAから、槇原敬之、ミスチル、篠原涼子、trfなど、その幅は広かった。もちろん、B'zに出会ったのも、小学4年の時だった。だが、その頃は、単に1つの『音楽』という概念でしか音楽をとらえておらず、バンドとか、小室系とか、渋谷系とか、全く考えずに聞いていた。
そして、中1。僕はGLAYにハマることになる。それまで、小4からB'zを中心に聞いていたが、なぜかGLAYは『バンド』として僕の中に入ってきた。当時は、『BELOVED』の前奏のアコギのアルペジオを弾きたいがために、ギターを練習した男子がいたぐらいで、初めてギターとか、ドラムとかを意識的に聞くようになったし、これらに対する知識自体も徐々に増えていった(実際、中1の時に吹奏楽部でパーカッションを担当していた女子に、ドラム譜の読み方を教えてあげていた。ただ、案の定、いつの間にか、その子の方がドラムはうまくはなっていたが…)。
そして、中3。吹奏楽部で毎年参加しているコンサートで、『くじら12号』(JUDY AND MARY)を演奏することになったのだが、なぜかこの時にエレキギターが加わることになった。未だに、どうしてあそこでエレキが必要だったのか(それもこれもヘンテコ顧問が決めたこと)が理解できないのだが、ただ、その出来事が僕が初めて、生でエレキの音を聞いた瞬間でもあった。
そして、この時エレキを演奏してくれた人とは、この後、秋の文化祭で『サボテンの花』で、僕がドラムを演奏するという形で競演することとなった。これらを通して、僕の音楽的意識は、吹奏楽からバンドという方向性へ向かい始める。
高校で吹奏楽を続けなかった理由
高校に入学後、吹奏楽を続けるべきか、僕はかなり悩んだ。まず一つ目に、中3の部活引退時に味わった脱力感を、また高3の時に味わうのは嫌だったということ。僕は中2後半の部長就任以降、それまで以上に吹奏楽にのめり込み、いわゆる『吹奏楽バカ』になっていた。部活以外に執行部活動などで忙しかったこともあるが、とにかく没頭していた。ただ、コンクールが終わり、文化祭が終わって、完全に部活そして吹奏楽から離れてしまった時点で、『やりがい』を見失い、かなりの脱力感というか無気力状態になってしまった。それから1ヶ月間ほどは、あまり勉強にも身が入らない状態になってしまった。
それから、高校入学。確かに、何度かまた吹奏楽をやりたいと思ったし、誘いもいくつかあった。だが、また同じ脱力感を味わいたくなかったし、そんなことでは大学進学にも問題が出ると思った。それで高校では吹奏楽を続けることを辞退した。
ただし、理由はそれだけではない。中3の時の吹奏楽部としての経験を経て、演奏者としてではなく、音楽を操る側、音楽のイメージを統率する側で音楽に関わりたいという意識が生まれていた。つまり、一人の演奏者として活動するよりも、何らかの音楽を形作ることの方が面白いと思ってしまったのだ。それが、僕が吹奏楽を続けなかった理由の2つ目となった。
最後に補足をしておくが、僕は吹奏楽が嫌いになったわけではなく、今でも吹奏楽は僕の音楽性を担う1つの音楽形態であるのは間違いない。それだけは強く言っておきたい。
音楽制作活動.KOM@の立ち上げ
高校で吹奏楽を続けないと決めた頃、同じクラスの松本氏に出会う。彼は、僕とは少し違う『ギター』そして『曲作り』というアプローチで音楽と関わりを持ってきていた。そして、両者ともB'zが好きだったということもあり、そんな彼と僕はいつの間にか気の合う仲間になっていた。
彼は、ギターが演奏できるし、曲も作れるけれども、それを形としてまとめる手段を持っていなかった。一方で、僕は吹奏楽やDTMの経験をふまえ、音楽作りのノウハウを多少は持っていたが、演奏能力や作曲能力に長けてはいなかった。そんな僕達が、『共同で音楽を作る』という方向に進んだのは、高校1年の秋だった。元々は、選択芸術の授業で、ギターの練習中に「なんか曲でも作らない?」という話から楽曲を作りがスタートした。高校3年の時には、思い出づくりも兼ねて、アルバム制作を決行。少ない資金と機材で、なんとかやりくりしながら、『DOGUMA』というアルバムを制作した。
その後は、高校卒業後も活動を続け、アルバム2枚(うち2枚はセルフカバー)、シングル5枚をリリースしてきた。